一ヶ月前の7月26~29日、私は生まれ故郷に行って三ヶ所で集会をもちました。この古里伝道のためにお祈りくださり、また、経済的支援をいただきありがとう。本当は、私は郷里伝道したいという願いがあって献身したのですが、神さまの導きで岐阜におって伝道しています。
今回の古里伝道を思い立ったのは――
二年前の2月に私の母が亡くなりました。その葬儀の時、村の壮年の方が私にこんな話をして下さった。「兼松さん、あなたは若かった時、村でクリスマス会をもってくれた。あの時のことを懐かしく思っている」私は17歳の時から数年間、村でクリスマス会をもった。その時のことを思い出した。「そうだ、私は郷里伝道を志していた」。そして昨年、私は目の病気を経験し、心臓が極度に悪いと分かった。もう古里に帰る機会はなくなるだろう。だから今のうちにわずかでも福音の種を蒔いていこう。また昨年、実家で嬉しいことがあったのにかこつけて、お祝いの意味も兼ねて、福音の種蒔きをしたかった。私の信じてきたイエスさま、私の人生をかけてきた聖書とは、どんなにすばらしいか。神さまをさんびするってどんなことか。肌身で、古里の人に知ってほしいと思った。
8章4節に「散らされた人たちは、みことばを述べながら巡り歩いた」とある。なぜ散らされたのか。7章54~8章3節に見る、クリスチャンたちに対する迫害が始まったために、迫害の激しさから逃げ出したのです。恐れて逃げたことを、散らされたといっている。
迫害はステパノから始まった。7章54-60節から、ステパノの信仰を見る。8章1-3節から、迫害に勢いづいたパウロを見る。また、迫害の中で、神は何をしておられたのかを。
51-54節、ステパノは、聖書を見て、聖書から、人の誤りを指摘しました。「あなた方は、いつも神さまが立てた人々に逆らい、迫害してきた。今またイエ スさまに反対し十字架につけた。聖書をもっていながら聖書に従った生き方をしていない。どうしたことなのか」これを聞いた人々は「はらわたが煮えくり返り、歯ぎしりした」はらわたが煮えくり返り=心の中がノコギリで引き切られる思いになった、ということです。それで歯ぎしりした。つまり「よくも当てつけに、オレらの悪いことを言いおったな」と憎しみと反感がそれこそ3オクターブも高まり「もうここまで言うなら生かしておけない」となった。
対して2章36-42節では、人々は同じ過ちを示されながら「そんな過ちを犯したなら、ではどうしたらよいのですか」「罪をゆるしてもらうように。ゆるしのしるしとしてバプテスマを受けなさい」と言われ悔い改め、ゆるしを求め、信仰をもった。
ではステパノの場合はどうしてなのか。メッセージが下手だったのか。あまりにも個性的であったのか。否。メッセージを聞く人たちの心が、頑なだったのです。もうひとつ「人々」とは、6章9節の「リベルテンの会堂に属する人々」つまりヘレニストです。聖書を生活と信仰の拠り所としていない。教養のひとつとして受け止めている向きのある人々です。神のことば、聖書を軽くみなす人々は、自分の罪を指摘されるや怒り出す。そういう人はステパノのような人を邪魔者と考える。
しかしステパノは、55節「聖霊に満たされ天を見つめた」自分の語った福音に逆らい、殺気立っている中で、人の顔を見ないで「天を見つめた」天に何があるのか。神がおられる。しかも、神さまの完璧に現れた姿を見る。それに、イエスさまが完全な神と全くひとつ、同じ姿でおられる。
しかし、私たちが地上で体験する神さまは一部分です。はっきりでなく、おぼろげです。
先日、九州宮崎県で伝道している城尾マツ先生に電話しました。
「城尾先生」「あー、カネマツ先生、声を聞けて嬉しい。私は92歳と6ヶ月になり、もう天国が近くなった」思わず「そうですねぇ」
「私は、ここまで来れたのは、神さまの恵だと”思っている”」
先生とのやり取りの中で、ご高齢であるのに耳はおとろえず、受け答えにも機敏さがあり、確かに恵を受けておられると感じ、そのように伝えました。ところで、私たちが この地上で「神の恵だと”思う”」「神さまは必ず助けてくださる”に違いない”」というのは、神をおぼろげにみている。しかし天では、神の完全な姿をはっきり見るのです。イエスさまも十字架で死に、復活しただけではない。それで終わりではない。神の栄光を全くそのまま持ち、天に上られた。私たちはそのイエスさまを、天において見るのです。
それだけでない。ステパノは56節「見なさい」という。ステパノだけが天を見上げられるのでない。ステパノだけが、神の栄光を、キリストが神としての栄光をもっているのを見られるのではない。誰もが見ることのできる天であるから「見なさい」といった。誰でも、天を見上げることができ、天におられる神とキリストの栄光を見ることができる。
しかも、「イエスさまは立っておられる」座っているのでない。ステパノを、信仰を持っている人たちを迎えようとしておられる。忠実な善いしもべよ。あなたの苦しみを他の人は分らなくとも、私はよく知っている。よく地上での労苦を耐え忍んだ、さあ、天へ!
ステパノのこの言葉を聞くと、56-57節、人々はこれを冒涜罪だとして、彼を殺そうと殺到した。
ここで、またもやステパノの信仰をみる。59節「主イエスよ。私の霊をお受けください。」死の瞬間まで揺るがされぬ、不動の信仰をイエスさまに持ってい る。60節「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」イエスさまが十字架上で息を引き取る時にささげられた、父なる神への祈りです。これと全く同じことを、ステパノは迫害する人々への愛からとりなしをする。人々から考えられないリンチを受け、痛みと苦しみと息切れする中で、愛のとりなしをした。
私たちは誰でも臨終の時、信仰の大往生をしたい。しかしいざ現実に死を迎えた時、心の中で準備していた通りのことばを語れるだろうか。臨終のことばは、その人の一生を凝縮していると言われる。ステパノはずっと天におられる父と子なる神を見上げていた。それが、死んでいく中で、生きた信仰を証していく。
8章1-3節、迫害が激しくなる。迫害するのは誰か。サウロである。後に新約聖書の多くを書いていく人です。7章57-58節でも、迫害する側は、聖書を学んで、知っている人たちです。しかし回心していない。聖書を読みながらも、聖書の神に回心していない人々がクリスチャンを迫害する。回心していないと狼のようになる。自分の考えと違う、自分の意に反する人を餌食にする狼となってしまう。サウロはしらみつぶしのような迫害をする。迫害はますます勢いづいてしまう。この中で、まことの神さまは何をしておられるのか?どこにおられるのか。天にだけか。
否、神はこの迫害の中で、確かに働いておられる――ひとつは8章2節、敬虔な人を造り出している。私たちは、敬虔な人と言うのは純粋で、空にかかる虹のような、美しいものと考える。違う。きれいに見え、しかしまたたく間に姿がなくなっていくのは敬虔ではない。反対に、基礎がしっかりし、根をしっかりはった、永続的な内容をもった者です。しばらくの間、苦しみの経験をする。様々な人に信仰の反対をされる。それでもイエスさまのことばに従い信頼していく者です。根をはり、柱を堅く立て、それがために、試練の嵐の中で立っていく者です。どのような中でも神さまを恐れていく者です。
8章3節、迫害の中で、神はもうひとつの働きをする。このサウロという人を獲得する。人間に神の証しをするのは人間です。いま、神の心の痛みを深く教えるために、サウロの残酷さをなすがままにしている。ステパノの殉教、クリスチャンの迫害、これは心に焼きつけられることです。そのあとで、「サウロ、あなたは何をしたのか」と問われる。罪を知らされる。
また8章4節、神のことばの宣教の拡大を図られた。誰によってか。よく学んだ人たちによってか。よく訓練された人によってか。確かに準備はされるに越したことはないけれども、今ここでは迫害の中でおびえて散った人たち、小さな弱い人たちを通してである。一つ所におった時、食事の配給のことで争っていたような人たちです。しかし、彼らが「みことばを述べながら巡り歩いた(4節)」。福音の種を蒔くため、用いられた。
私たちも今週、置かれた場所で用いられるかもしれない。ふと、みことばが口をついて出、誰かが回心に導かれるかもしれない。
私たちは日々みことばを読み、心に蓄えていこう。
神さまが用いてくださいますように。