2011年8月28日「福音の進展」兼松 一二師 : 使徒の働き 8章4‐13節

私は、牧師になって4、5年経ってから、毎年3月になると気落ちすることがあった。

 

そのころの、その教会には、勤労学生がよく来られた。働きながら3年間短大で学び、卒業すると古里に帰っていくということがあった。3月に勤労学生は卒業する。そして、古里へ帰る。毎年3月に3、4人のクリスチャンたちが教会を離れて古里へ行く。私はいつもつぶやいた。「苦労して、やっとイエスさまに導いたのに、確実に帰っていく。これではこの教会はちっとも大きくならない。どうすればいいのか」教会を守ろうという気持ちがあり、教会から離れていってしまうというマイナスイメージが強かった。祈っているうちに、ひらめいたのが「月報」を作ることでした。

 

この「月報」を、この教会と古里へ移った人とをつなぐ絆にしよう。古里に帰っていく人について、こう考えよう。彼らをこの教会から彼らの古里へ、派遣するという理解をもとう。自分にそう言い聞かせて、古里へ帰らせた。

すると不思議な現象を見た。教会が、少しずつ大きくなっていった。

 

 

第一、4節: 意外な形でのキリスト教の進展を見る

「散らされた人たち」というのは、1節「教会とクリスチャンたちへの激しく厳しい迫害があった。それで信者は方々に散らされた」厳しい迫害を受けて逃げ惑ったというのが、散らされたという言い換えです。厳しい迫害――攻撃され、苦しめられたとき、クリスチャンたちは悩んだと思う。想像するに「イエスさまを通して、神さまのことが分かった。その神様を信じたら迫害され苦しめられることになった。教会に行けなくなり、散らされた。神さまの御心はどこにあるのか。神さまを信じたら平安が与えられると語られている。しかし現実は、攻撃され苦しめられ、不安でいっぱいだ」

 

ところが、そうではなかった。4節の、迫害されて散った人たちはこう考えた。「私たちがクリスチャンとして生きる道はただ一つ、聖書のみことばを目の前にいる人に宣べ伝え語ることだ。」

 

私の信仰者としての人生を切り拓く方法はただ一つ、聖書のことばを目の前にいる人に語っていくこと。私が周りの環境をよくしていくにはただひとつ、聖書のことばを隣人に語ることだ。私が本当の友を造る秘訣はただひとつ、聖書のことばを目の前にいる人、出会う人に語ることである。そういう意味で、必死にみことばを宣べ伝えてきた。

 

悩んでいる人、悩みや不安や不平をつくっていく人は、聖書のことばを自分に宣べ伝えていない。鏡に向って、自分にみことばを、福音書、箴言を語れ。

また、出会う人に、福音書に見るイエスさまのことば、箴言を語れ。

8章5-40節では、ピリポが語っていくのを見る。

 

第二、みことばを宣べ伝えていくとき、すばらしいことを見る。

6節、しるしを見る。奇跡的なことを見る。しるしを見るとはどういう意味か。

 

(A) イエスさまのことを人に話すと、”イエスさまが自分と共にいる”しるしを見る。聖書に書いてあるイエスさまのみことばを目の前にいる人に話すと、”そのみことばと共に今ここにイエスさまが共にいる”しるしを見る(→マルコ16章20節)。「私は決してあなたを離れず、あなたを捨てない(ヘブル13章5節)」迫害で苦しむさ中にも、イエスさまは私と共にいてくださるということが分かる。

誰が私の傍にいるか。主がおられるのだ。

 

(B) ”イエスさまの力のしるし”を見た。7節、この業はイエスさまが行われてきた業です(→福音書参照)。イエスさまは力あるというしるし、神の力のしるし、その表われです。

 

(C) ”イエスさまは主権をもっておられる”というしるし。9-13節、魔法使い(魔術師)シモンが、自分は偉大な者だ、神の化身だと言わせていた。魔法使いというのは、神秘的なものに精通しているとも言える。それに、普通でないことを行っている。

私が笠松町に住んでいた時、その町に江川という所があるが、そこでひとりの老母が魔術を行っていた。その江川の近くに住んでいるまじめなクリスチャンがいて、私にこう言った。「先生は病気を治せないよね。江川のおばあさんは病人を治す。どうしてできるんだろう。先生はどうしてできないの。そういう力はないの。江川のおばあさんは色んな病気を治しているから、皆は『江川の神さま』と呼んでる」

 

魔術と、聖書にみるいやしの違いは何か。

7、8節では喜びが出てきた。言い換えるなら、神への感謝とさんびが出てきた。

9-11節では、魔術の場合、そのことを行う人をあたかも神であるかのようにしていく。神の化身かのようにしていく。

 

どうして彼らがそういうことを行えるのかは分らない。しかし今日、そのことよりももっと大事なのは、12、13節でピリポがしるし、奇跡を行うと、魔術師がイエスさまを信じていったこと。これはイエスさまの主権の現れです。魔術師を打ち破り、イエスさまに従わせた。今日、宗教は混沌にある。しかし主権は現される。

 

最後に、なぜ神さまはしるしを見せるのか。

それは、聖書のことばが信じられるためにです。

 

6節、最初、人々は聖書のことばを聞く。しかし、しるしを見ると、聞くというよりも耳をすまして、心を集中して聴く。信じるために聴くようになる。大切なことばとして聴くようになる。

 

しるしを見なくとも、心を集中し、落ち着いてみことばに聴き入り、イエスさまの力と主権と臨在とを感じ取り、認めて、理解していくなら、もうとっくにしるしを見ることを通り越した、高い信仰をイエスさまにもっているのです。

 

信仰をもって、みことばを聴いていきましょう。話していきましょう。その中で私たちは、しるしを見ます。教えにあるような、変えられていく現実を見ます。