2012年1月22日「神の国に入るには」兼松 一二師 : 使徒の働き 14章19‐28節

先日(1月17日)東京で、「岐阜県の教会の現状を報告して下さい」と頼まれ、一時間半の間、報告しました。岐阜県には早くからキリスト教が伝えられた。カトリック教会は1600年ごろ、織田信長の時代に伝道している。しかし徳川時代の初めと終わり1680年ごろ、多数のクリスチャンが迫害され殺される。プロテスタントが岐阜県に伝道するのは1887年からです。伝道はどのようにしてなされたか。

 

外から外国人宣教師が入ってきて、英語を教えながら、また学校を作りながら、幼稚園を立てながら、聖書を教えて信仰に導いた。そして、信仰をもった人の家で家庭集会をしていった。また、宣教師は出ていって、聖書講義所を借りて短い間、聖書講義をしていく。宣教師は最初イギリス(1887)から派遣され、アメリカ(1890)、スカンジナビア(1890、チームで)からも入ってきた。

プロテスタントの伝道は内側からも起った。1800年代の後半に織物が盛んになった。それにつれて洋服の仕立てが勢いづいてきた。洋服の仕立てを習いに横浜に行き、そこで信仰をもった人たちが、この岐阜県に戻り、家庭集会をもっていく。それが宣教師たちとドッキングする。濃尾、美濃地方はこのようにして教会が広まり、戦争ののち、1950年代から色々な教派が入ってきている。飛騨はスカンジナビアの宣教チームがしっかり根をおろし、そこから全日本に出ていって伝道する。キリスト教の広がりは先ず宣教師による。

ところで「使徒の働き」に出てくる「使徒」たちは宣教師とも言えます。開拓伝道者でもあります。

 

第一、「宣教師」について考えてみましょう。

宣教師は26節、アンテオケ教会から二人の人たちを送り出したことから始まっている。宣教師は伝道旅行をする。ある期間伝道して、送り出してくれた教会に帰る。

14章19-26節にあるカタカナの名前は、伝道した町の名前です。19節はルステラという町(14:8-19)、20節はデルベ、24-26節でピシデヤ、パンフリヤ、ペルガ、アタリヤ、アンテオケというこれらも町の名前です。基本的に地中海の北の港町かその付近の町の名で、そこに二人の宣教師が行った。19-20節、パウロとバルナバです。

(A) 宣教師とは何をする人なのか。21節、行く町で福音を宣べ伝える人です。言い換えると聖書で証しされているイエスさまを語っていく、聖書に書きとめられているイエスさまのことばを語っていく人です。聖書に証しされているイエスさまは私たちにすばらしいことをして下さっている、という福音を語る人です。他の事はイエスさまのことを受入れ易くするための手段です。

(B) 宣教師は自分たちを送り出してくれた教会に定期的に帰って報告する必要がある(26-27節)。26節「彼らが成し遂げた働きのため……送り出された」私たちは福音を伝える働きを成し遂げ、役割を果たしました、とか、もしくは思う通りにいかなくて役割を果たせませんでした、と報告した。なぜ果たせなかったのか。19節、妨害です。だがパウロとバルナバは妨害があったのに「今、成し遂げた働き」とある。働きを成し遂げた。順調に行ったというのでなく、27節、神が私たちと共に働いて、異教社会の人に門を開いてくださったということです。イエスさまの事を話して、伝えていくのは自分の力ではない。神の恵(26節)のおかげです。神さまが恵み深く働いておられるので、宣教の働きが前進できたのです。こういう報告は支えてくれる教会を大いに励ましていく。

(C) 宣教師に必要なのは、28節「かなりの長い期間、支えるクリスチャンたちと共に過ごす」休暇の時です。休養です。力強い働きをするにはエネルギーを体に蓄えて、体調を整えなければいけません。激しく働いていくためには、十分な休養を取っておかないと途中でつぶれてしまいます。宣教師の休暇中は共によく祈り、役に立つ本を落ち着いて読むなどします。

あぁ、この教会から宣教師・伝道者が立てられ、将来送り出せるように。

 

第二、働き人を支える教会となるためには、教会はどんな内容をもっていくか。教会に集まってくる人たちを休ませ、かつ人を育てる教会は、どんな内容をもっていなければならないか。

 

21節、福音を宣べる教会、イエスさまを語り合う教会。聖書に証しされているイエスさまが私たちには必要です。聖書に証しされているイエスさまを語り合うとき、私たちの心は光を与えられる。心が休まる。励まされ、勇気が出てくる。ただ、そこに留まってはいけない。先にイエスさまを信じている人が、新しく教会に入ってくる人に聖書のことを話し、イエスさまのことを語るだけでなく「弟子としていく」ことが教会を強めていく。弟子としていくというのは、第一コリント11:1、クリスチャンとしての私を見習いなさい。私はキリストに見習っている。やがてあなたもキリストに見習っていくように。あらゆることにおいて、この内容をもつべきです。聖書を用いて、自分がキリストに見習っていく。あなたは私に見習ってください、こういう信じ方とあり方をしたら、教会は生きている人格的なキリストを知っていく。知識に留まらない信仰、己で学び、ものにしていく信仰です。

 

22節「神の国(天国)に入るには多くの苦しみを経なければならない」私たちは、神さまの素晴らしい恵みの取扱いをいただきたいと思うなら、多くの苦しみを経なければいけない。やがて天国に入り、永遠に神の完全なお取扱いをいただきたいと思うなら、苦しみを経なければならない。

あるとき、弁護士と話し合う機会があった。その方はこんな例があることを話してくれた。ある家庭で、奥さんがクリスチャン、主人がノンクリスチャンでした。ノンクリスチャンの主人は訳があって奥さんと離れたい。理由が見つかった。「奥さんはクリスチャンで私とは考え方も生活の内容も話も全く合わない。食い違う。これではやっていけない」信仰を、離れなければならない原因にしてくるケースがある。その時の奥さんの苦しみは。理由にならないこじつけで、夫が自分を見捨てようとしている、夫婦なのに話し合いができないという苦しみ。私という者を理解してくれない、信仰者としてどうしたらよいのか分らないという苦しみです。

 

苦しみ、苦悩、試練をどう乗り越え、神の恵みの中で前進するのか――心を強め心を確かにし、キリストに対する信仰にしっかり留まることです (ヘブル書12:2-11) 。

 

キリストへの信仰に留まる中で、苦しみを耐え忍んでいける。そういう苦しみには前進がある。私たち主を信じる者は皆、この神の国に入るため、苦しみを経るたびに前進している。訓練を経ることなく、よい実を結ぼうなどとは考えない。訓練により、恵みのご恩寵を更に受けていくように。

 

23節、教会全体が整えられるには、長老が立てられることが必要です。みことばを正しく教え、根気強く教え、常日頃教えてくれる長老が必要です。

ひとりの老婦人が「先生、『夕暮れ時に、光がある』という聖句はどこにありましたか」さてどこか。「何だ、牧師が覚えてないの?」ハイ。「しょうがないな」まて、コンコルダンス(語句索引)がある。ゼカリヤ書14:7です。こうして、みことばを共に読んだ。老婦人は家で、老主人に語って励ました。「老いた私たちにも、なお主にあって完成の時がある」と。

 

この教会から将来、宣教師・伝道者が立てられ、送り出せるように。