私たちの心をワクワクさせるもののひとつに旅行がある。いつのことでしたか、中部国際空港にお客さんを送りに行った。その時、空港から大きな飛行機が飛んでいくのをみて、心がワクワクし「あー、旅をしたいな」と思った。旅をすると想像もしないトラブルが必ず起こる。それでも旅を終えると貴重な経験をしていると思う。そのことは後になって分る。
実は、使徒の働き15章36節-18章22節はパウロの第二回目の伝道旅行です(第一回は13章1節-14章28節)。
第一回の伝道旅行は小アジアでした。つまりオリエントの世界にイエスさまを伝えることが目的でした。第二回目の伝道旅行はギリシャ地方と地中海、つまりヘレニズムの世界に広く旅していく。これまでの3倍も4倍も困難な伝道旅行になります。最初から広く遠くまで伝道していこうとは考えていなかった。人生もそうです。最初考えていたことが実行されていく中で、計画していなかったことが付け加えられてくる。
第二の伝道旅行をしようとした時の当初の目的、計画は何か。36節「先に主のことばを伝えたすべての町々の兄弟たちの所に、またどうしているか見てこようではないか」一度旅行したところに、また行きたいと思う。同じ所にどうして旅行をするのかというと、「前会った人たちが、今どうしているか見たい」。
私をよく導いて下さったアメリカの宣教師の体験です。この宣教師は最初、日本の山口県に来られた。山口県岩国市の人たちは、アメリカ人の珍しさに、すぐに50,60人集まった。ところでアメリカ人宣教師は、4年経って一旦、教会に報告に帰ることになった。「日本での伝道はとても効果的です。」そして再び宣教師は山口県に向かった。「どうしているか見てこよう。」すると教会にはひとりもいなかった。留守を守っていた伝道師がひとりだけで、毎週、人が一人来るか、誰も来ないという一年間だった。宣教師は泣いた。昨年まで集まっていた人たちはどうしたのか。アメリカの教会に、こんな現状を報告できない。それからというもの、この宣教師は、誰かがキリストを信じたら何年かして神学校に送り、伝道者にしようと考えた。そうしたら教会に来なくなるということはない。私はそういう考えのもとで献身した、宣教師にとって18人目の者です。
「かつて聖書を教えた人々は、今どうしているか」パウロは苦労して教会を創設したが、自分が働いて創設した教会は今、どうなっているか。私の苦労は無駄になっていないか。今、その教会があるにしても規律のある教会となっているか。みな一致しているだろうか。正しい信仰をキリストに対して持っているだろうか。その後あの人はどうしているか確かめ、必要とあらば励ましたい。
そういう目的から、第二回目の伝道旅行を計画した。ところが39節、この計画を立てた時、ひとりの人マルコをつれていくか行かないかで大ゲンカになった。
「激しい反目」をある訳では「激しい争い」と訳している。伝道者と伝道者が人々の前で大ゲンカしていく。しかも37,38節バルナバとパウロとが大ゲンカする。この二人はとっても仲が良かった者、力になってくれた者同士、尊い支えを与え合い、慰め合った頼もしい仲間、同志です。9章26,27節、11章21-26節、バルナバは柔和で、堅実なクリスチャン、まさに神の器という伝道者です。パウロをかばい、パウロを成長させた先輩クリスチャンです。パウロはバルナバによって勇気を得、バルナバによって立場を得た。バルナバとパウロは頼もしい、力強い仲だった。なのに今、このバルナバとパウロは大ゲンカをした。
若い伝道者、ヨハネマルコを巡って意見が食い違っていた。教会にとってこのことは驚きであり、また見たくもない、聞きたくもないことでした。伝道者同士が争っている。こんなでは愛を説いても信用できないとか、福音の宣教どころじゃないと思う。しかし、聖書に書きとめられたのには大切な意味があるからです。
第一、バルナバの言い分を見よう。37節、マルコは若い伝道者です。「主のことばを受け入れた兄弟たちが、どうしているか見てこよう」という所に若い伝道者を連れていこう、主のみことばを伝えるところにも、信じた人々がその後どうしているかという教会の成長、変化にも、一緒になって取り組む経験をさせたい、というのがバルナバの考えです。ところが38節のパウロのことばから、マルコは、パンフリヤで私たちから離れて……仕事のために同行しなかったような者は連れて行くべきではない、「仕事を共にしていこうとしないような者」だった。バルナバは、それは「若気の至り」で、誰だってそういうことは一度や二度はあるじゃないですか、若者は楽なこと、仕事でもしないで済むことを選ぶじゃないか、と考える。マルコは若かったので失敗したんだ。若い人は色々と、これから経験させ、訓練すべきじゃないですか。バルナバという人は、どの人にとっても慰める人です。
JTJ神学校にいま講義しに行くと、すべての授業で手話通訳する人がいる。ひとりの若い人に「大変でしょう」と聞くと、その方はこう答えて、事情を教えてくれた。「私の父は耳が聞こえず、話せない。母も耳が聞こえず話せない。ボクは生まれた時からそういう環境で育ったために、ことばが習えず、ちぐはぐな中で、どうしたらよいのか分らずこども時代を送った。充分に学校へも行けなかった。気がついたらもう大人になっていた。くやしくて、くやしくて、それでせめて、ろうあ者にも聖書の学びを届けられたらと思って、手話通訳しているんです」これは共感と、共有する生き方です。そしてそういう人を担う。これは慰め手になる人です。自分が辛い所を通ったから、辛い立場にいる人を支え、仲間にしていく。これがバルナバの言い分です。時に若い人の失敗をかばい、大目に見ていこう。
第二はパウロの考え方です。38節、若くても「仕事のために一緒にしなかったような者は私たちと一緒にやっていくことはできない」。仕事とは主のことばを伝えるということです。主のことばを伝えるという時に途中で投げ出してしまってはいけません。パンフリヤでは途中で責任を投げ出してしまった。しかし今は31-32節、励まし合い、喜びの中におり力づけられている。こういう環境にはいつの間にか身を寄せてくる。辛い時、きつい時はさっと身を引いて、喜びの中、励まされるところにはいつの間にかやってくる。それはこれからの伝道には、私たちとはやっていけない。
主のことばを伝えるという心はどういうことか。IIテモテ3:10-12、4:1-5より。IIテモ4章2節、みことばを伝えるのに時が良い時と悪い時、不利な時、迫害、苦難の時がある。そのようであっても、4章5節、どんな場合にも自分の務めを全うしなさい。3章12節、キリスト者なら、どの方でもキリストにあって敬虔に生きようとする人は迫害されます。ひどい取り扱いを受けることがある。
マルコはイエスさまに背いたわけではない。これから彼も伝道者として進んでいく。しかし十字架を負って、キリストに従うということを避けた。伝道者ながら、十字架を負いたくなかった。パウロはそういう人が今後のひとつの例になってはよくない、とした。
いま色々な会社の研修会で必ず行われる体験がある。それは最初どの人も素手でトイレをきれいに洗うということです。最悪なこと、最もいやなことを引き受けていく覚悟のある人は、必ず、人によいものを提供していく。
結果的に、39-41章、パウロの伝道は良かったとか悪かったというのでなく、主の恵みを祈っていただき、教会を力づける伝道をした。開拓と共に、高度なヘレニズム社会にイエスさまを伝えていく、政治もしっかりしている所にイエスさまを伝えていく。そんな中にあっても人々を力づけていく伝道をパウロはしていく。これは主の十字架を負って主についていくというあり方があるからです。IIコリント1章4,5節、そのような人はキリストの慰めを得ていく。パウロはこれまでバルナバが慰め手でしたが、主の十字架を負って主を伝えていくとき、主が慰め手となって下さった。