2012年2月26日「ピリピ教会 始まりの人」兼松 一二師 : 使徒の働き 16章11‐15節

人生で私たちは多くの人々と出逢います。そして「ある人と出逢ったことは恵みでした」といつもいつも繰り返して言いつづけていく出逢いがあります。そういうことを恵みの出逢いと言ってよいでしょう。

16章11-15節には、まさに恵みの出逢いが記されています。パウロたちとルデヤ夫人の出逢いです。それはピリピという都市での出来事です。恵みの出会いはどのようにして経験したのか。

 

 

第一、パウロたちの行動、活動をみてみましょう。(11-13節)

12節「それからピリピに行ったが、私たちはこの町に幾日か滞在した。」パウロたちは最初計画になかったのですが、今、伝道旅行に出ました。それは10節「マケドニアに来て助けてください」という幻を見たとき、直ちに、そこで旅行に出たのです。マケドニアというのは、日本で言うと東北地方とか関東地方、中部地方の「地方」で、アメリカで言うとカリフォルニア「州」です。ネアポリスはマケドニアになる。しかしこの町はパッとしない町でした。それでピリピ、これもマケドニア地方の「町」とありますが「都市」です。「マケドニア地方第一の都市」で「ローマの植民地」でした。ローマ政府の権力が色濃く出ている町でした。ここはローマの駐留軍が占めていた町です。パウロはここだと思って、留まった。パウロはローマの市民権をもっているし、ここは重要な都市ですから人がいる。ローマの市民権をもっている限り、無造作に暴力を受けることはない。平和な穏便な取り扱いを受けていく。第一都市、重要な都市ですから、人々の心も生き生きし、福音を聞くだろう。恵みの出逢いが起こされるには、こういうこまめな働きがあります。

 

ところがどうでしょう。「幾日か滞在した」何日も何日も、何もよいことはなかった。幻を見て、志を高くもった。しかし現実は何ひとつよいことはない。私たちも今から18年前、新しい伝道計画をもって志をもってこの町へ移ってきた。知っている人が一人もいない。そして私個人としては、この町に移ってきて一週間で職場を解雇された。家内だけが朝から晩まで働き続けることになった。追い打ちをかけるようにして、翌年に腰を痛め、その三月にはオウム真理教事件でした。単立の教会で開拓伝道となれば全く知人がないような状態で、世間の人々は単立の教会の私たちをオウム真理教と同じような見方で見ているようで、宗教はこわいものだという雰囲気が漂っていた。教会も息をひそめたようになってしまい、その後2,3年は私も生きた心地がしなかった。これが伝道の現実かと思った。その中でただひとつ心がけたことは、人と接することでした。幸い妻がECCを開いて子供とその親が出入りしてきた。その人たちと接した。家の前の公園に子どもたちが遊びに来る。そのこどもたちと接し、子どもを迎えに来る家族と接し話すことを心がけた。そこに主の恵みが働いた。13節でも「安息日…私たちは…女たちに話した」これが主の恵みの働くときとなった。私たちも人と接し話しかける。主のことばで。主のことばで話しかけ、励ましのことばを語りましょう。主の恵みのわざが始まってきます。

 

 

第二、ルデヤの行動をみましょう。(13-15節)

13節「安息日に…祈りの場に…集まった女たち」。14節、その中に「ルデヤ」がいた。安息日にルデヤはどこにおったか。祈りの場、主を礼拝する場にいた。それが心が恵まれることにつながるのです。丁度よい所におったために主に特別の恵みをいただいた。もしルデヤがここにおらなかったら、パウロの話は聞けなかった。パウロは伝道の旅をしている。いつも同じところには居らなかった。ルデヤは丁度よい時に、よい所に集まった。安息日に祈りの場、礼拝の場に居ることは主の特別な恩恵をいただく手段です。なぜか。祈りと礼拝の場には心底から神さまを知っている人たちがいます。礼拝の場には、神さまに愛されていることが確かに分って、それで生きる力をいただいている人たちがいる。そのような人と交わるときは、主の恵みが働くときでもある。神の恵みをいただく手段を軽く見てはいけません。安息日、祈りと礼拝の場に居るようにしましょう。

 

14節、ルデヤの姿勢がよかった。「神を敬うルデヤという女が聞いていた」。ルデヤはパウロの話すのを聞いていた。どういう姿勢で聞いていたと想像しますか。じっと聞き入っていた。「聞いたことが生活のためになるように」という思いで聞いていた。聞いたことが自分の力になるようにと聞いていた。聞いたことばによって神さまを知っていこうと聞いていた。

東京にある昭島教会では、日曜日の礼拝のあと昼ごはんを一緒にいただくが、その時、その日の礼拝で聞いたメッセージによってどんなことを神さまから気付かされたかを証しし合う時間があります。そのような証しを聞いて、ひとつのメッセージなのに色々な聞き方があるんだなァと感じました。そしてよく聞きとっているということを知りました。ぜひ、友愛教会でもした方がよいと思いました。信仰は聞くことによると聖書にありますが、ルデヤは聞く姿勢がよかった。それで信仰をもち始めていくし、祝福を受けた。

 

14節、どんな祝福を受けていくか。「主」は彼女の心を開いて、パウロの語ることを心に留めるようにされた。神、主イエスさまはルデヤの心を造られた。神さまは人の心を造られ、創造される。ルデヤはこれまで神を敬ってきた。つまり神はおられる、ただ一人の神はおられる、その神は正しいお方である、と、その神を畏れ敬っていた。ですから社会的に、特別に悪いことはしなかった。ただルデヤは商人でした。これまで商売の心をもっていた。商売というのは、いかにして儲けるか、どのようにして自分に利益が入ってくるかということで心と頭がいっぱいです。しかし今、パウロの語ることに聞き入って、神さまに新しい心を造られた。

神さまに造られる心とはどのようなものか。15節「自分も家族もバプテスマを受けた」バプテスマを受けるとは、イエスさまを信じます、イエスさまに従います、という告白です。そして、自分の心の主人は神さまである、とすることです。今までは「私はどのようにして利益を上げようか」そう思う心は「私」が中心でした。福音のことばを聞いて神さまに心を造っていただいてからは「神、イエスさま」が心の主人になりました。十字架で殺されたイエスさまを神さまは甦らせた。その力は考えられない。イエスさまの死と復活の力に、私は与りたい。

そして15節、こういう生き方に変わった。「私を主を信じている者と思うなら、私の家に来て滞在してください」と言った。私はイエスさまを信じて最高の宝をいただきました。イエスさまを信じるということは自分のことであくせくして生きるのではなく、自分は自分の勤めに一生懸命励みますが、それはイエスさまに仕えるという意味で励むんです。イエスさまに本気で仕えるときに、イエスさまはさらに重要な任務を任せて下さるんです。私はそう受け入れました。これからは私をも私の家族をも、パウロ先生、私たちを伝道のための拠点として使って下さい。

このルデヤこそピリピ教会の発端になった。16章40節が、見事にそのことを表しています。

 

主よ、私たちにも開かれた心を造って下さい、と祈りましょう。

14節を共にお読みしましょう。