全国の鉄道の拠点となっている上野駅の真ん前に、夜になるとひとりの若い女の人が、小さな机を運んできて、占いをしています。夜そこを通りますと、「どうですか」と声をかけられることがあります。一瞬、振り向いてみるとパリッパリッの若い女の子です。机の前に垂れ下がっている布をみると「運勢占い」とある。驚きやら溜息やら、複雑な心境になりました。
第一、16-18節に「占い」のことが出てきます。
受験シーズンや、難しいことがなかなか解決できないと、占いがよく使われているのを見ます。日本語の「占い」は神のみこころを探り、予知したことを告げるとして未来のことに関係したり、難しい、悩みの原因についての神の考えはこうであると告知し、過去と現在のことに関係します。例えば未来を占う、これからの運勢を占うという場合、占い師の考えや占ってもらう人の生き方、自分の努力に関係なく、人との出会いも関係なく、これからの運命が決まっていると思っている。過去と現在について占ってもらうとき、大方は悩みに悩んでいるときに、手取り早い解決法として占ってもらうという道に走る。そしてついには「お祓いを受けなさい」とか「こうしなさい」と、それこそが唯ひとつの解決方法だと言われる。悩むということに人格的な問題がからんでいることを考えさせない。人格的なことには色々な要素があるのを考えさせない。そして、占いは昔から「当たるも八卦、当たらぬも八卦」という。真実は判らなかった、ということです。
聖書では、この占いのことをどう受けとめているか。申命記18章9-13節、14,15節を見ると、
13節、神さまへの健全な信仰をもちなさい。神のみこころを教えるのは「預言者」であり、新約聖書では預言者と使徒たちです。そして今日では「聖書」です。神のみこころは神さまが打ち明けられて初めて判るものである。こちらから占い、判断するものではない。
神さまは聖書によってみ旨をはっきり表わされています。常日頃聖書を読んでみ旨を知り、非常時に備えていく。
使徒の働き16章16-18節に、占いの正体が語られている。16節、霊につかれた若い女奴隷とある。霊につかれ、霊に縛られている。これは悪霊につかれた、悪霊の奴隷になっているとも言えます。悪霊は神に全くそむくものです。私たちを神さまにそむかせる働きをする悪い霊です。16節b、占い師は人間の奴隷にもなっている。「この女は占いをして主人たちに多くの利益を得させている者であった」とあるが、この「主人たち」は女奴隷の所有者です。その女の人を奴隷としてもっていた人たちがいた。奴隷ですから雇われていたと言うのでなく、働かされていて報酬はなかった。占い師はあわれなことに悪霊に縛られ、人間にも奴隷とされて、二重の束縛を受けていた。更に17節「叫び続けた」。大声で、たけり狂った言い方、しゃべり方です。聞くのに耐えられないしゃべり方です。異様なものを感ずる。言っている内容はしっかりした内容ですが、その狂った言い方に異様なものを感じ、正常な思いでは聞くことができない。17節、占い師はパウロたちについてこう言っている。「この人たちはいと高き神のしもべたちで、救いの道をあなた方に伝えている人たちです」と。正しいことを言っている。神はいと高きかた、イエスさまは救いを施す方、クリスチャンたちは神のしもべで救いの道を宣べ伝えている人たちであることは確かにそうです。神を知っていながら信じようとしないのが悪霊の仕業である。罪を知っていながら悔い改めようとしない。
ある方々がクリスチャン同志で同じ職業でした。商売がたきという言葉があるように、職業上から来る妬みと反感があった。しかし何年かして、片方のかたが仕事がうまくいかずに店じまいをすることになった。店をたたむことになった人が、他のかたにこう言った。「これまで色々と失礼なことをしたり、失礼なことを言ったりしてごめんなさい。私の過ちを赦して下さい。私もまたイエスさまにあってあなたを赦します」それ以来、この二人は会う機会はありませんでした。しかし「ごめんなさい、私の過ちを赦して下さい。私もまたイエスさまにあってあなたを赦します」という内容はとても嬉しい、さわやかなものです。詫びるということはよい関係を作り、過ちを悔い改めるということは非常に価値ある関係を造っていくものです。しかし悪霊は、罪を犯したことは分っているのに悔い改めさせない。救いを施すのはイエスさまであると分っているのに信じて受け入れようとさせない。神を知っていながら、ほめたたえ、信じようとしない。
このような悪霊の働く占いの世界に縛られ、振り回されているとき、私たちはどうしたらよいのか。
18節「イエス・キリストによって命じる。『悪の霊よ、この人から出ていけ。』」キリストによって命じる、人を迷わす霊よ、この人からも、私たちからも出ていけ。罪と分っていながら悔い改めない、赦しも求めない霊よ、この人からも私からも出ていけ。
私たちにとって大切なのは、イエス・キリストをしっかり自分の心の中に持っていることです。そして、イエスさまが私の、今のこのとき、働いて下さいと強く願うことです。私たちの信仰とは、いつもイエスさまを心の中に持っていくことです。クリスチャンと言うのは、イエスさまを心にいつも持っている人のことです。そのイエスさまに「私のこの時に権威をもって働いてください」と恵みを請い求めていきましょう。
イエスさまが働かれるとき、18節、すると即座に霊は出ていった。人の心を惑わす、あの悪の霊が出ていき、心は自由になった。「奴隷の心」から自由になった。人にもの扱いを受けてきた、そこから自由になった。利益や儲けたいという縛られた心から自由になった。イエスさまを心底に受け入れるとき、人のことばの奴隷にはならない。こうしなければならないという強迫から自由になる。むしろへりくだってイエスさまに課題をもって仕えていく。イエスさまにへりくだり、課題に取り組んでいく。
第二、19-23節、35-40節に世の人、肉の人の姿を見る。
19節「彼女の主人たちはもうける望みがなくなったのを見て、パウロ…を捕え、訴えた」一言で、強欲な心です。女の人を奴隷として使ってきた。只働きです。人を只働きさせ、その道が閉ざされると、また別の人を捜す。支払うべきものを支払わず、それを恥とも思わない。物事を損得でしか考えない。支払うべきものを支払わないで、自分を肥やそうとする心は強欲です。
20-21節、こじつけ、口実、とってつけた理屈をのべる。――主人たちがパウロたちを訴えた理由は「もうける望みがなくなったのはパウロのせいである」というものでしたが、しかし訴えた内容は「治安妨害である。パウロたちはローマ社会の治安を脅かし、やがて社会の安全が崩れてきます」と。パウロを憎み、訴える内容は全くのでたらめです。憎いと思うと、憎い人を陥れるために話をつくってまでして追いつめていく。
22-23節、長官は群衆を恐れてパウロを罰する。37節、取り調べもせず人を罪人にしてしまう。長官はパウロを不当に取り扱っています。
私たちには、強欲の面で過ちはないでしょうか。こじつけのようなことはしていないだろうか。長官のように人の目をおそれ、調べもせず、人に不当なあたり方をしていないだろうか。このようなことが自分の中にもあると気がついたとき、神さまの前で悔い改めただろうか。「神さま、私たちは(マタイ23:23にあるように)正しさとあわれみ深さと誠実でなければいけないのに、強欲で、人に対しても罪を犯して、キリストを信じているはずなのに、キリストの教えに全くそむいたあり方をしています。悔改めます。悔改めます。キリストの霊を私の心に住むようにして下さい」と。
35-40節、どういう風の吹き回しか、長官はパウロに過ちを犯した、釈放せよ、と命じた。
37節、ローマの市民権をもつとは、ローマ人として誇りあるあり方をする機会を与えるように、ということです。またローマ人は一定の保護を受けた。ローマ人にはむち打ちや十字架刑は下さない。パウロはローマの市民権を盾にとって「私が無罪であることを公にはらしてもらいたい」と言った。それは40節、いま始まったピリピにいる信仰者のためです。イエスさまを信じることは何も間違っていない。むしろイエスさまを知って信じることは誉あることだと分ってほしいからでした。
キリスト者として堂々とあれ、と。