二日前、私は歯の治療のため歯医者にかかった。丁度そこに、同じ団地に住んでいる私と同じ年齢の方もおりました。その方がこんなことを言われた。「最近、私たちのおる団地は寂しくなったね。若い人やこどもたちが少ない。年寄りが多い」年寄りが多いというより、人がいなくなってきた。空家があちこちあり、空家を壊して空き地になっている所がだいぶ出てきました。人がおったのに、今は人がいなくなった家というのはさびしくなります。人がいなくなった町や村が多くなった。寂しいだけでなく、力がなくなります。人間においてすらそうですが、もし、私たちの家に神さまがいなかったらどうだろうか。私たちの町に神さまがおってくださらなかったらどうだろうか。私たちの心に神さまがおってくださらなかったら、私たちの心はどうなるのでしょうか。
若い時、体に勢いがあり、力があるのに、心に神さまをもっていないと、思いのままに遊びたい、もうけたい(19節)、乱暴である(22-23節)。物事を確かめないで力まかせに人に乱暴を働き易い。
年老いたとき、自分の思い通りにならない、自分の力の限界も分った、そんな時、心に神さまをもっていないと「なにもよいことはない」「空しい、淋しい」とつぶやくでしょう。
そこで第一、神さまを心に持っているとどうなるか。パウロとシラスのようになる。
24-25節、二人(パウロとシラス)は、デッチあげにより訴えられて「奥の牢」に入れられ、足かせを掛けられた。奥の牢とは、たぶん「地下牢」のことで、社会的に非常に危険な人たちとしての取扱いを受けたということです。36-37節を見ると、間違った扱いをしている。
今の時代、何か起こるとすぐに裁判に訴える。その時点でも誤った取り扱いを受けると、どうするか。裁判で争う。まして誤って牢獄に入れられたら、弁護人を通して活発に弁護していく。間違った裁判、間違った投獄をされたら、恨む。憎む。憤慨し、冤罪の主張をする。
パウロとシラスはどうだったか。25節、真夜中、神に祈り、さんびの歌を歌った。心に神さまをもっている人は、今おる所を神への祈りとさんびをささげる所としていく。教会堂だけが神へのさんびと祈りの場ではない。神をもっている人は、今おるその場を神への祈りとさんびの場にしていく。神をもっている人は、自分の住む場所を、神さまのおられる天国にしていく。
もしあなたが神を心にもっているなら、あなたの住む所を神のおる天の住まいとし、祈りの場としていくのです。あなたの働く職場は神と共に働く天の聖なる職場となるのです。パウロとシラスだけでない。旧約聖書のヨセフもそうです。
「真夜中」なのに「他の囚人たちも聞き入っていた」。ふつう、真夜中の祈りやさんびは寝ている時間帯ですから、うるさいとどなられる。
私も牧師になって三年目くらいから、クリスマスイヴに真夜中、キャロリングをした。私はトロンボーンをもち、他の二人はトランベットをもって、二台の車に乗って、クリスチャンの家々をキャロリングに回った。夜9時半から始まり、最後の所は午前二時位になる。ついに病院と警察署を回った。その時、警察署では警官が3,4人出てきて、「こらっ、安眠妨害だ」と叱られた。私は、キリスト教会はいま全世界でキャロルをしているんです。そう謝って分れた。それから毎年、歌だけやった。真夜中です。警官が出てきた。私たちは白いガウンを着て、キャロル「きよしこの夜」をやった。警官が敬礼した。
人の心に魂の灯をともそうと神に祈り、さんびする所では、人々の心に落ち着きと希望を与えていく。
26節、それだけでない。神さまもまた力強く働かれた。「大地震」です。その時、獄舎の扉が開き、足かせの鎖が解けてしまった。聖書に、大地震のことが何度も出てくる。その時は歴史の大転換の時である。イエスさまが十字架につけられ殺され死んだ時(マタイ27:51-)、イエスさまの復活の時(マタイ28:2)、世の終りの時(黙示録6:12,8:5…)である。これらは神さまがそこに臨まれたという証しとしての奇跡です。奇跡の中で起こる出来事は、重要なことですという、神さまが念を押したしるしです。今までとは違う新しいことの始まりであるという、神さまの証しである。
第二、27-34節。看守を通し、キリスト信仰を見る。この大地震の時イエスさまを信じた一つの家族のことが記されている。
29節、看守はこの時「震えながらひれ伏した」。この「震えながら」というのは、恐怖ということでない。大地震に恐怖を感じたというのではない。何か特別なことが起ったことへの畏敬の念という意味です。というのは、27節では地震で扉が壊れた、つまり囚人を囲う扉が壊れたので逃げたと思った。囚人を逃してしまったら、看守は処刑される(使徒12:18-19)。いっそのこと自殺しようとした。しかし28節、パウロもシラスも全囚人も逃げていない。「私たちは全員ここにいる。」
ふつうは考えられない。ここでふつうの人たちのあり方でないという思いが出た。獄舎から出たら、ある囚人たちは苦しみから、ある囚人たちは処刑から逃げられるのに、逃げない。これを見た看守は、囚人が皆全員そこに留まっているという現実に、人間のさばきを超えた神のさばきのようなものがあることを感じ、震えた。それと共に、鎖がはずれ、牢獄の扉は開かれて、沢山の囚人が目の前にいる。一体自分はどうしたらいいんだ。襲いかかってくるということもある。どうしたらいいのか。
そこで看守自ら牢獄の中に入っていって、30節、二人を牢獄から出して、質問した。「先生方(Κύριοι)、」これは31節「主」の複数形です。「先生方」と言ったのは、畏れと尊敬をもって呼びかけたことばです。「今の危機状態の中で私はどうしたらよいんですか。私は何をしなければならないんですか(教えてください)」
私たちは震えながら、「先生方、救われるために何をすべきでしょうか」と求めたことがあるだろうか。聖なる震えを感じ、救いを求めたことがあるだろうか。まことのキリスト信仰をもつに至るのに、このことはとても大切なことです。
答えは31節、「主イエスを信じなさい。そうすればあなたは救われます。あなたの家族も救われます。主イエスを信じたら、必ず助かります。私たちは主イエスさまを信じたら、この世での様々な危機の中にあっても必ずイエスさまに救っていただけるし、やがて最大で最終の危機は神さまのさばきですが、その時にも必ずイエスさまによって救っていただける。信じなさい」。
私たちの信仰とは、
(A)助かる方法を選んでいくことでなく、救ってくださるイエスさまに心を向けることです。
(B)イエスさまに心を向けるだけでなく、イエスさまに従っていくことです。そのために31節、主のことばを聞き続けて、その言葉に従っていくのです。
(C)33節「看守は…時を移さず、二人の打ち傷を洗った」これは、ごめんなさい、申し訳ないことをしました、ごめんなさいという悔い改めのしるしです。私はこの人たちにムチを当てるなんて、何てことをしてしまったんだ。ごめんなさい。自分のなしたことが過ちだったことを、聞いたことばによって悔い改めた。しかし、してしまったことは消えないし、取り返しができない。主イエスさまにあって赦していただく以外にない。
(D)悔改め、主イエスさまを信じたしるしとしてバプテスマをうけた。イエスさまを信じることを後ずさりさせてはいけない。イエスさまを信じることは信頼していく、自分を預けていくことでもある。私たちはひと通り分ってくると、この方を信頼して自分を預けていていいのかと、ふと別のことを考える。恋愛の経験があると思うが、この人がよいと思って期待し、犠牲を払い、ついていった。ところがひと通り分ってくると別の人がよく思えてくる。信仰の生き方にも同じことが起る。イエスさまよりも世の中のほうがよく見えてくる。イエスさまがよいと分っているし、よいに決まっている。それを後ずさりさせないために、信仰のしるしをしっかりと身に刻み、イエスのものとなったという立場をもつため、バプテスマを受けよう。
(E)35節、神を信じたことを心から喜んだ。イエスさまを信じることは虚しい空想ではない。助けられ救われているという事実から喜びが出てくる。神さまの恵みは、よい方に導いてくださるということが判って喜びになる。神がキリストにあって恵みを与えて導くというのは、現実をよい方に、実りある方に導いてくださっているということです。これは喜びにつながる。
最後にもう一度、31節を皆さんでお読みしましょう。