以前、この教会に旅行の好きな方がいました。列車時刻表を買って駅の名前を見ていました。その方は、各駅停車で旅をするというのが趣味でしたから、駅の名前を順を追ってよーく見ていました。情緒があふれる旅ですね。
20章1-6節を見ますと、パウロという人が旅をしている。
マケドニヤ(1節)、ギリシャ(2節)、シリヤ(3節)、トロアス(5,6節)は町の名前です。パウロは三回繰り返して伝道旅行をしている。この三回目の旅行の、帰る途中のことが記されている。これは最後の旅になり、パウロはもはやこの町々に再び来るということはなかったのです。どうして、もう二度と来ることはなかったのか。19章21節、新しい旅の課題ができたからです。
もはや再び来ることはない、もう会うことはないと思う旅は1節「別れを告げる」ことでもある。
昨年、宮崎県にこの教会から7人で伝道旅行しましたが、92歳の牧師先生と、もう二度とこの世で遭うことはないだろうと思って慰問に行った。別れを告げる最後の晩、私はこれが最後の語り合いだと思うと、心が締め付けられるようで泣けて泣けて、止められなかった。そして共に泣きながら祈った。そして別れて旅館に行った。ところが次の日の朝5時ごろ、92歳の牧師先生は私たちのところにまた会いにきてくださった。別れが惜しい思いでいっぱいでした。
1節、パウロはエペソの教会のクリスチャンたちを呼び集めて励ました。これまでの体験からよく学びとるように。エペソでは、18章23節~19章に記されているように、アポロのような伝道者がいた。間違ったことを教えているわけではないが、大切なことが欠けている伝道者でした。また偶像の問題があった。お守りを売る信仰があった。こういう問題への警戒を教えたでしょう。
パウロはこれまで、先頭に立ってキリストを宣べ伝えた。今このエペソの町を離れることになった。この町に残って生活するクリスチャンたちは、今まで自分たちを教えてくれた人を失う。今まで自分たちを愛して支えになってくれた人を失ってしまう。自分たちのために先頭切って戦い、苦労してくれた人を失う。しかしパウロは励ました。甦りのキリストは共にいると。
励ましの内容は後日学びますが、20章17-38節に記されています。
7-12節、パウロはトロアスのクリスチャンたちと会って、ここでは何をしたか。共に礼拝した。
一週間滞在して最後の晩のこと、パウロは7節、人々と語り合い、夜中まで語り続けた。メッセージをしたという意味です。トロアスの教会の人々とは二度と会うことはないということで、話すパウロの話は長く、聞く人も最後の告別説教だと思って、ひとつも聞きもらすまいと聞いていたが、9節、ユテコという青年は窓の所に腰をかけて聞いていたのが眠りこけて、窓から下に落ちて死んでしまった。
しかし7-12節、この出来事が、神さまに礼拝をささげる意味を教える生きた材料になった。
礼拝とは、7節、
週の初めの日に、イエスさまの御名によって、一つ所に(会堂に)集まる。
マルコ16章9節、週の初めの日にイエスさまが死から甦られて、弟子たちに現れたという事実を信じていることを表わしていく意味で、ここに集まるのです。これが礼拝のひとつです。
ふたつめ、パンを裂くために集まる。
「パンを裂く」のは、ひとつに、食事を共にする。親しく結び合う。おいしいものを共に食べると心も和み合う。ところで本来、教会では食事を共にし、次に聖餐式を行い、聖餐にあずかった。
聖餐式でパンを食べ、ぶどう酒を共に飲む。この時、
イエスさまは私の罪のために犠牲になられ、十字架で死なれた。誰のためでもない私のためである。私の罪のため、考えられない程の犠牲になられた。イエスさまの十字架の苦しみは私のためです。
ということをいつも心の中に呼び起こし、このことを決して忘れない。そして、イエスさまの十字架の犠牲によって私の罪は赦され、帳消しになった、と、自分の罪についての徹底性を、キリストの十字架と結びつけていく。この喜ぶ所まで引き上げていただく。
この聖餐式のあとまたパンを食べ、ひとつとなって食事をした。しかもその食事は、私たちは同じイエスさまによって罪を赦された者同士、私もイエスさまの御名によってあなたの罪を赦します、そういう赦し合いのある親しい交わりをもって食事をした。
みっつめ、語り続けた。
聖書からの説き明かしです。説き明かしの中心は9,10節、人は一度死ぬ。そして、信じて死んだ人は心配ない。主に罪を赦されているからです。やがて新しい永遠の生命に甦らせていただく。
私は、この「ゴール」を聖書から、また礼拝で、しっかりと魂に彫りつけられたので、これが最大の宝物となっている。キリストの犠牲による私の罪の赦しがある。新しい生へ甦らされるということがある。私たちの一年一年は失敗ばかり、しおれる、絶望、病の時があるが、ゴールがある。イエスさまは失敗や罪をおかす私をあわれみ、弱い私、すぐにしおれる私、病があるのにカラ元気な私をさげすまず、責めもせず、むしろ弱くしおれる私のいと近い傍にいて、「君には永遠の命を与えている」という約束によって、今からいただいている。このゴールが分れば、平安、勝利です。礼拝してきたことから、神さまよりの賜物だ。